私の心は爆発寸前 〜もうとっくにキャパは超えてます〜

私の境遇って普通なのかな?なりふりかまってられないので愚痴らせて下さい

ついに離婚

私が母と大もめして、
家出したことをきっかけに、

父は母との関係を見直そうとした。
しかし、それは時すでに遅しだった。

もう完全に母の気持ちが離れてしまっていたからだ。

父が歩み寄ろうとしても、
母はそれを受け入れなかった。

あの父がそこまでするとは思わなかった。

独裁的で、
強引で
プライドが高くて、
自分の言うことが全て正しいと思っていて、
自分のことばかりで、
自分に自信があって、
自分の意見を押し通して、
しきりたがって、
自分以外の人間を下に見ていて、
人のことをすぐにバカにして、
相手の気持ちがわからない、
寄り添えない

あの父が、
私が家出したことも一つのきっかけになったのか、
母に寄り添おうとした

こんな究極になるまで
自分のプライドを曲げられないなんて。

最初は、
二人で食事に誘ってみたり、

母が本当は大好きなお酒を、
父も一緒に飲むと言ってきたそうだ。

父はお酒が飲めない人なので、
母と一緒にお酒を飲むことはなかったし、
母親が酒なんて飲むな
というようにずっと禁止していたらしい。

母親がお酒飲んでなにが悪い?
たまには息抜きしたっていいじゃんね。

子どもに悪影響

だからだそうだ。

しかし、
母と関係を修復しようと考えた父は、

母にお酒もオッケーしたし、

ずっと外に出たがっていた母を、
仕事に出すことも考える
と言ったそうだ。

母はそれにより、
よく仲良くしていた学生時代の友達と夜に飲み会を開くことがあった。
私も、進学する大学が決まっていたため、
その席に参加することもあった。

いくらお酒を飲むこと、お酒の席に参加することを許したといえど、
高校卒業前の娘を連れてお酒の場にいくことは、
許容範囲を超えていたようだ。

といっても、
母の友達の家で、
22時半まで、
大人は
飲んだり食べたりしていて、
子どもたちはゲームをしたりして遊んでいただけだが。

父はそれも気に入らなかったし、
ろれつが回らないくらい酔っ払って帰ってきた母の姿も許せなかったらしい。

そこからまた大喧嘩が始まり、
今まで通りの険悪な二人に戻っていった。

そして最終的に、
板挟みになって辛くなって、
私がもう離婚していいよ

と母に言ったことで、
母は離婚の意思をかためていった。

父ははじめはそれを拒否していたが、
しだいに母の意思は変わらないとわかったようで、

離婚に応じないと言っていたはずが、

早く出て行け!!

と言うようになっていった

そうしてわざわざクリスマスの日に、
母に荷物をまとめて出て行かせた。

家出騒動終了

家出騒動は、
中学時代の教師が、
突然亡くなったことにより、
終わりを告げた。

私もひどく落ち込んだし、
こうやって人と突然別れがくるということを実感して、
このまま家出しているのはダメだなと思い、
家に戻った。

先生が亡くなったことは、
とても悲しかったけど、
先生が、
家に戻りなさいって言ってくれたんだと、
私は先生に感謝している。

それからしばらくはぎこちなかったが、
少しずつずつ日常に戻っていった。

もちろん、
父と母の関係も、
その場しのぎだったので、
ボロがではじめる。

父が帰ってくる時間になると、
母が妹の部屋にこもり、
妹はリビングでテレビを見たりしていた。

父がその態度にぶちぎれて、喧嘩が勃発した。
妹が、
ママが部屋にこもっちゃって寂しい
と、父に連絡したようで、
父が、
娘にどんな思いをさせてるんだ
とブチ切れた。

母もいけないが、
父との関係がそうさせているんだから、
妹に寂しい思いを、させてるのは二人の責任だと思うが。

私は自分のことでいっぱいいっぱいで、
妹の悲しさや寂しさには気付いてあげることができなかった。

私が母に、
もう離婚していいよ
なんて言ってなかったら、
まだ家族でいられたのかな?
でも母はもう限界だったし、
もしかしたら母が精神病んでおかしくなっていたかもしれない。
夫婦の関係を修復するためのカウンセリングとかもあるようだし、
他にもどうにかなる方法はあったんじゃないかな、、 



今更後悔したってもう遅いんだけど。
いくつになっても、
親が離婚したって事実は、悲しくてつらい。

母とのいざこざ

親が不仲であり、

常にピリピリ

イライラした家庭環境で育った私は、

子どもの頃からどこか満たされない部分があった。


母とは、

打倒父

のような絆があるように見えていたが、

実際はそうではなかった。


割と自分は、

いつ死んでもいいと思っていたし、

自分が出来の悪い子だから、

父と母は喧嘩するのかな、

私のことなんて愛してないんだろうな

どうでもいいんだろうな


なんて考えていた。


なので、

中学の時の高校受験のストレスの時には、


窓から飛び降りようとしたこともあるし、


リストカットまではいかないが、

皮膚を少し傷つけて、

血で壁に

みんなしねばいいのに


と書いたこともあった。


そんなSOSを発していたが、

父と母は関係がよくなることはなかった。


私に対する接し方は改善してくれたが、

結局、両親が仲良くて、子供に目をむけて、

愛情を注がないと、

愛されているという満たされた心にはならないんじゃないか。


その他には、

母にちょっと文句を言われた時に、

なにかがぷつんときれて、

発狂して部屋にこもったこともあった。


母になにを言われても答えず、

隙を見て、家から脱走して、

理由はなにも説明せずに、

泣きながらおばあちゃんちの二階にこもった。

その後しばらく、おばあちゃんちの二階から、

高校に通った。

1ヶ月近くその生活をして、

父は私とむきあって、

自分や母の親としての姿について恥じて、

色々と声をかけてきたが、

なにを言われても、

あんな最悪な環境に戻るか

と思っていた。


この事件により、

父とコミュニケーションを取る時間が増えた。

父は母が作ったお弁当を、

私に届けたが、

私は一ヶ月間、一度も食べなかった。

毎日仕事終わりに様子を見にきた父に、

お弁当箱を渡す。

父は初めは

お弁当はちゃんと食べなよ

と言ったが、

私は絶対に食べなかった。

あの食べなかったお弁当は、

父が食べて渡していたんじゃないかと、思うが、

本当のところはわからない。


なにが正解かはわからないが、

ちゃんと、私と向き合って欲しかった。

どうしてほしいのか、

どうするべきなのか、

ちゃんと私の心の声を聞いて欲しかった。


でも、後日聞いて驚いたのだが、


父の姉、私にとってのおばは、

私たち家族のことを心配して、

私の父と、母に

家族として成り立っているのか?

と聞いてくれたらしい。

すると、二人とも

成り立っている

と答えたそう。

つくづくお気楽な人たちだと失笑してしまう。

二人の解釈は、

今まで母と結託してしまっていたため、

父のことをないがしろにしていたが、

母ともめたことにより、

父とコミュニケーションを取れるようになったから、

成り立っている

という解釈だったようだ。

そもそも娘が家に帰りたがらない時点で

家族としては成り立っていないだろうよ。


私が家出をしはじめて、そのまま、

高校生活最後の体育祭の日に突入した。


母に文化祭に行くよとメールで言われたが、
絶対にくるなと返信した。
そしたら本当にこなかった。
娘の高校生活最後の体育祭に行けなくてもいいんだ、そんなもんなんだ、と自分から言ったのだが、とてもショックを受けた。

その時、本当に母のことが嫌で嫌でしょうがなかったけど、母のことを試す気持ちもあったのだと思う。
母は私と向き合わないで、逃げたんだとその時思った。

母と父の喧嘩に板挟みにならなくて、
そのことに関してはとても幸せだった。
きっと娘がこんなふうになってしまって、
父も母も多少は反省してるんじゃないか、
私のことをちゃんと考えるんじゃないか、
夫婦のことを見つめ直すんじゃないか、
と期待する気持ちもあった。

でも、どんなに娘のためだとしても、
子どもに愛情があったとしても、
夫婦の関係というのは修復できるものではないということに、
この時は気づけなかった。




母の病気


私が高校2年の時、
母が突然の激痛を訴え、
病院に救急でかかった。
今まで見たことのないほどの苦しみようだったため、びっくりはしたが、
不思議と死んでしまうんじゃないかとは思わなかった。
尿管結石だった。
父も仕事を途中で切り上げて帰ってきた。
その日の朝方、
父と母が言い争いをしている声が聞こえたが、
あーいつものことだ
と思い眠さに勝てずそのまま寝ていた。
なにか他にも音がした気がするが、ほっといて寝た。

次の日の朝、ソファの横に大きな穴が開いていた。
父が怒りに任せて壁に蹴りを入れたら穴が空いたらしい。

尿管結石騒ぎの前に、大げんかしていたことを、
母はひきずっていて、
父のことを無視していたらしく、

救急で病院にかかったことで
一応心配して急いで帰ってきた父からしたら
母の態度は
父を怒り爆発させたようだ。

体調悪いのに朝方まで喧嘩することになって母は母でぶちぎれていた。

どっちもどっちだなと私は思った。

母の病気と言えば、
母は、ずっと肝臓の数値が悪かったらしい。
お酒も父に禁止されていて飲んでいないのに、
なんでこんなに数値が悪いんだろう、
と思っていたらしい。
ある時、
新聞を見たら、
中国からのダイエット食品の回収の記事があった。
それは、
父に飲んで痩せろと渡されたものだった、と。
父は母の様子をひどく侮辱していた。
デブだ、
みっともないだ、
恥ずかしいだ、
食べるな
など。
痩せて欲しいがために買ってきたものはのちのち回収される危険なものだったらしい。

悪意があれば、
仰天ニュースに出れそうなエピソードだ、、。

そうともしらずに、
母に、
健康診断の結果が悪かったと聞いた時、
私が悪い子でママに迷惑かけてるからママが健康じゃなくなっちゃったんだ、と思って大泣きしたことがある。
小学生のとき。

子どもには、
どんなにクソ親でも、
大切な存在であることには変わりないんだ。
でも、やっぱり夫婦仲がいい親の方が、
子供の情緒だって安定するし、
愛されてたってことが自信につながっていくんだよね。
わたしにはそこが欠けてるんだと思う。

私には7歳年が離れた妹がいる。

私が1年生の時に生まれて、
ずった欲しくて欲しくてたまらなかった妹ができて、

とっても嬉しかった。

赤ちゃんの頃は、
本当に可愛くて、
小学校の友達よりも、
早く妹のお世話がしたくて、
友達と遊ぶ約束もせず、
ずっと家で妹の面倒を見ていたので、
母に、
学校に馴染めないのではないか、
いじめられているのではないか、
と心配されていたぐらいだった。

だんだん妹が大きくなってくると、
妹は私のことを馬鹿にし始めた。

といっても、まだ小さかったので、
馬鹿にする、というより、
なめている、
といった感じだった。

それはやはり父がしょっちゅう私のことを怒ったり、
勉強ができないことを責めたりする姿を見せていたから、
お姉ちゃんはいつも怒られてる

と思われて、
姉としての威厳など全くないかんじだった。

あとは妹特有のずる賢さというか、
要領の良さというものがあったので、
妹はあまり怒られているところは見たことがなかった。

あんなに大好きだった妹のことも、
なんだかバカにされてるかんじも気に入らないし、
同じことをしていても私の方が怒られることとか、いろいろなことが積み重なって、
妹のことがねたましくなっていった。

それもあったし、
父の印象は、
母のことをいじめているひどい人
私に強く怒る怖い人
というふうに思っていることもあったため、
私はでかけるにしても、
なにをするにしても、
母にくっつくようにしていた。

そうすると、妹も母のほうにくっつきたがるが、
私が父の方へ行くように追いやっていた。

母も、
父の機嫌を損ねるのはめんどくさかったようで、
なんとか妹のことは、
パパっこになるように誘導していた
と言っていた。

私はその時、
私は7年も先に妹より生きてるから、
ママやパパと離れるのも妹より早いんだろうから、
今はママにくっつかせてくれ

妹はそのあとだって一緒にいれるんだから。

となんの根拠もない自分勝手な言い分を妹によく伝えていた。

妹はその言い分を理解したからではないと思うが、
パパと行動を共にしてくれていたので、
私にとっては都合がよかった。

でも、大きくなってから、
この言い分を通していたことを、
妹に対して、
本当に申し訳ないと思うようになった。

その当時は、
まさか両親が離婚することになるなんて思ってもいなかったからだ。

妹だって、
ママと一緒に行動したり、手を繋いだり、
したかっただろうに、 
私が独占しようとしたから、
母が父の方へ行くように誘導したから、
パパっこにならざるを得なかったのかと考えると、
心が痛む、、、。
妹には、
本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

心の変化

私は、

幼少期からずっと両親の不仲がつらくて、しんどくて、 

母が泣いているのをみたくなかったし、

助けてあげたいなと思っていた。


高校生くらいになって、

母が父のいろんな愚痴を私に言ってくれるようになって、

最初は嬉しかったが、

だんだん、

またか、、、 

と思うようになっていった。


「paaakoや妹が大きくなっていって、父親の浮気を知ったときに、子どもたちがどんな気持ちになるかわかんないの?ってパパに言ったら、あいつなんて言ったと思う?そうやって大人になっていくんだよって言い捨てたんだよ!



 私「クソすぎるな。自分の過ち正当化して開きなおるなし。」


私が高校生になって、


母は、

父と喧嘩すると、

そのたびにさまざまな話を暴露してくれた。


母と父は、父の両親からお付き合いから反対されていて、

電話してたら電話越しに

何時間電話してるのよ

と言われたり、


家に遊びに行ったら、

挨拶もせずにリビングのドアをバタンっとしめられた、とか、


反対を押し切ってできちゃった結婚したとき、

父の父は、

「俺は孫の顔なんかみたくもない!」


と言われた、とか、


知らない住所の光熱費の請求が父宛にきて、

浮気相手の身の回りの世話をしているんじゃないか疑惑や、


上司の親御さんが亡くなったからお葬式に行ってくると言い、遠方だからと泊まりで行ったが、

帰ってきたその喪服の中に、

プール付き宿泊施設の領収書が入っていたなど、


クソエピソードがたくさん暴露されていった。


私はどんどん父を軽蔑していったが、

母にも原因はあるんだろうな、

と思うようにもなっていった。


父にも母にもイライラするようになり、

喧嘩するたびに仲裁に入るのも、

うんざりするようになっていった。


もういい加減、

離婚すればいいじゃないか。


全然口も聞かなくなっているし、

なにか用があれば、私に

「パパに伝えてきて。」

「ママに伝えてこい。」

と私を間に挟むようになった。


父も父で、

私に母の悪口を言ってきたり、

母に対する不満を

私を介して伝えようとすることもあった。


私は父と母の板挟みになり、

限界を感じていた。


不仲でも一緒にいてほしい


そう思ってた気持ちは

一切なくなり、

早く離婚してくれ


と思うようになっていた。


私の心

両親がしょっちゅう喧嘩をしていて、

離婚だの、

浮気だの、

言ってる中で育った私は、


一見普通に育ったと思う。


特に外では、

至って普通に見えたと思う。

学校でも問題は起こさず、いたって真面目に過ごしていた。


グレることもなく、

普通に過ごした。


でもどこか、

心に穴が空いているような感じだった。


だから家では、

時に情緒不安定になることもあった。


感情を初めて剥き出しにしたのは、小学校5年生の頃。


父親や母親の喧嘩が、

自分だということで、

両親がいつも喧嘩をしているのは自分のせいなんだ、

と思い、

私がいなくなれば

解決するのかと、

本気で思い、

「もういやだ!!」

と泣きながら自分の部屋にいき、

大きなリュックにわけのわからないものをたくさんつめて、

「出て行って死ぬ!!樹海の森に行ってやる!!」


と言ったことを今でもよく覚えている。


そのあと、

父親に、

「そんなことさせないよ。」

と強く抱きしめられ、

安心した気持ちや、悲しい気持ち、苦しい気持ち、怖かった気持ちなどいっきに出て、

泣き喚いた。


母は「ごめんね。こんな親でごめんね。」


と泣いていた。


私も辛かったが、


子どもに死ぬなんて言わせて、


両親も心が痛んでくれてたんだろうと思う。




なんでこんなふうになっちゃったんだろう。


どうしたら離婚しないですんだんだろう。


大人になった今でも、

ふと思ってしまう。


両親が離婚すれば、苦しみから解放されるんだと、

思ってたけど、

実際は私はちがかった。